命を繋ぐ祖母の記録〜終戦・満州引揚げ・戦後混乱期〜

10年ぐらい前に97歳で他界した私の祖母の遺した記録があります。

従妹がプレゼントしたもので、身内が見る事を分かって94-95歳頃に書いたものです。

指の筋力も衰えていた、しかも昔の人が書く文章、旧字なども使われ読みづらいかと思いますが、

ネット上にもずっと残したいなと抜粋して。

時々同じ事が一部分繰り返して書かれていたりするけど、しかしこの記憶力は身内ながら凄いなと思います。

 

まずは祖母の紹介から。

愛媛県宇和島市に明治45年に生まれました。独身時代は教師をしていました。

今後出てくる祖母の手書き文中で、

「〜は、」と言うとき「〜ハ、」と書かれています。

「末永」と言うのは私の祖父の事。

「道子」は私の母。

「王(ワン)さん」は満州で働いてくれていたお世話になった人。

 

昭和5年頃〜↓

信用する知り合いの紹介で、お見合い写真だけで、実際に会うこともなく、

いきなり中国満州へ転勤になった祖父(日本人)の元へと海を渡り嫁ぎます。

特に家のためとか言う政略結婚でもないのに、そんな状況があるなんて今の日本では考えられませんが…

 

終戦ちょっと前の話。

祖母は満州の病院で、道子(私の母)を産んでいます。

祖父は国境を計測し地図を作る仕事をする公務員だったようです。

それをやめてから満州の日本人街で商店をする様子、物資のこと、言語、終戦前日の事↓

ソ◯←旧字と書かれたのは、ソ連(今のロシア)の事です。

その頃の特記事項。これによっては今、私がここに居たかどうかわからない。

終戦前日、そして当日。

 

終戦後の奉天(満州)の動乱。

リアルな鉄砲、殺されるかもしれない環境。

↓『正直屋』は、やっていた商店の名前のよう。

読んでいたページ数が多く、急いで撮っていたので右端切れてしまってます…。

いよいよ引揚げ(敗戦後、中国本土などから日本に帰る事)。

右写ってないので「暑くなると病がはやるから早いうちにと、清水さんの姉(と言うことに)してもらひ…」

船の中

↑この話はよく聞いたもののうちの1つ。当然印象が強かったのだろう。

 

 

福岡〜祖母の実家、愛媛宇和島へ

玉津という土地名はあちこちにあるけど、たぶん愛媛の玉津だと思います。

今で言うと月給17万なのにお米2万って事ですもんね…量わからないけど高い。

別ページに煙草を巻いて内職で作っていた事が書かれていた。

 

そうしてやっと祖父の親族がいるので京都へ。京都駅ど真ん前あたりです。

必死で働き生活を立てる様子がよくわかる。

そうして忙しく働き続け、店にテレビなども買って置けるようになり、

近所に家も買う(借地)

 

そこに住んでいたが私の母道子が結婚し、その家に住むようになり、

同時に母の妹が東京の洋裁学校ドレメに入るので、母の弟も連れて、祖母は東京へ。

 

ちなみに祖父は、「これからの時代は国内旅行だ!」とか言って伊豆に温泉旅館を建て、そこで働いていました。

先見の明はある人だったんですが、何より仏さんが大事な人で、祖母の稼いだお金まで日本のあちこちに建てる仏像などになってしまい…

15人兄弟姉妹の長男で、早くに父親が亡くなったので弟妹を父親代わりに育てたとは聞いてます。

でも他にもいろいろあり…うちの一族の悲劇を生むトラウマはここから始まったのかもねーと従妹と時々話します。

めちゃくちゃ美男子ではあったので、祖母もその写真見て嫁いじゃったのかなー^^;

まぁ、あの当時にしては「行き遅れ」だったので、実家や世間を気にしてなどいろんな思いがあったのかとは思いますが、

おかげですごく苦労してました。

 

でもやっとやっと中年になり、祖父とは別居のままだけど、仕事には明け暮れることが無くなり、

本来好きだった読書、新たに短歌、書道、そして買い物やおしゃべりなど楽しめる時間ができてきたようで、本当に良かったです。

こんな事情なので私には父方実家大阪、母方実家伊豆と渋谷の3つの「田舎」がありました。

都会と、海や山川のある温泉旅館、住んでる家は古都と、その点はなかなか恵まれてました。

 

私の旅行好きは血筋だなと思える記述。

信二(叔父)がこの時代に世界一周とか(笑)

そしてやっと私が登場します。

まあ、確かにそうかも。ただそれだと私は居ないけど。

もちろんそこまで考えて祖母はここを書いていません。初孫として最高に可愛がってもらいました(^^)

 

最後2枚。

1枚目祖母がその両親に思うこと。

まさか乃木将軍がこんなに身近な人だったとは。近現代史に詳しくない私でもさすがに知っている…。

こんなにできたひいおじいちゃんとひいおばあちゃんだったのね。

そして一際もちろん想いが強く、私達も度々聞いた話。実はうちの母を産む前に、もう一人長男がいました。

満州から不安で一度宇和島に里帰りして出産していた子供です。

「肺炎で死亡。主人は病院の前素通りして…」

最後2行写り悪いので「(引き揚げてきた)二人とも顔が土の様な色をしてたと、後年父が言ってた 栄養失調」

 

戦争前後、その環境に巻き込まれ、

人の命も危ういほど、一生懸命働いて

長男を失った頃に、私の母はお腹の中。

胎教どころか、相当な精神的ストレスできっといろいろ影響があったんだと思う。私の母が体弱いのも。

しかも生まれてから少しで終戦で今度は栄養失調。

それが大人になった弱い母から生まれてきたのが、遺伝されてさらに弱い私。そんなとこにも影響が。

 

NHKの、著名人の家系図をさかのぼって本人に調査結果のVTRを見せる『ファミリーヒストリー』みたいに

これを読んだあと私の中に新しい遺伝情報のフォルダがピコーンと出来た感じでした。

 

まあ、それはさておき、

全ての日本人の祖先は、この戦争を経験して来ていると言うことです。

人それぞれ居た環境は多少違うとしても、

同じように苦労をして悲しんで、

戦後の何もかも底の日本を、一生懸命無我夢中で働き続けて、

一気に立て直し

世界中が驚くほどの先進国にしてくれた。

あの世代の人が頑張ってくれたおかげで

今の私達に家電があったり、外食を楽しんだり、ほとんどの場合、昔と比べると脳天気に暮らしていられる。(そりゃいろいろはあるけど。)

 

じゃあせめてその有り難み(有るのが難しいって書く)を認識して、恵まれている事を感じ、

子孫が幸せなのが祖先の願いなのだから日々恵まれている幸せをちゃんと感じ、

こういう戦争の記録を、書いたり話したりして伝え遺していかないと。

ちょっとつぶやくでも、発信している団体への寄附でもいいから何か。

ご先祖様たちは、あんな苦労を二度と自分の子孫たちにはさせたくないだろうから。

 

 

トラベルフォトライターAkaneが
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